堀川会長のエッセイ


                    
                       一切を知った男

    様々な集まりの挨拶の中で「私はすべてを知って死にたい」と言うことが多くなりました。
    仏陀が次のような詩を作っていたんですね。

                     「マッジマ ニカーヤ 第26経」
          
                わたしは一切に打ち勝てる者、一切を知るものである。
        すべての物に汚染されず、一切を断つものとなり渇愛が滅したとき解脱したのである。
                  自ら知ったのであるから誰を師とあげようか。
                  私には師はいない。私のような者は存在しない。
                 神を含めた世界において、私と肩を並べる者はいない。
              私は世間で尊敬されるべきものであり、清涼であり安らいでいる。
               法の輪を転ずる為にカーシー(バーナーラシー)の都に行く。
               無知の闇に沈む世界で、不死の太鼓を打ち鳴らすであろう。


    さすが仏陀ですね。    天上天下唯我独尊  と全世界にメッセージした釈迦族の元王の言葉です。

    ”知らないで死んではいけない”と、最近痛切に思っています。

    その理由はことしの1月、2月、3月と、親友が次々と天国に召されたから。
    その一人に学生時代を共に汗をかき、同時代の空気を吸い駆け抜けた、友人の山根研一君がいました。
    四ヶ月の命ですと宣告され、三月で旅立った彼の遺稿集が今日ポストの入っていました。
    ポストを覗くとすでに封は開いてあり、それは”堀川早く読んでくれ”と叫んでいたのでしょうか。

    詩の始めの言葉は
            -楽しかった一瞬の人生、あのギリシャ神話の小さい星になるのだ-          
    それに続いて 
           ”錨を上げ とも綱をとけ” ” 第一の夢から第七の夢” ”出港” まで9編の詩。

    そして山根智子さんの(夫人)後書きが続く。

                  惜別        山根智子

     余命四ヶ月の告知を受けてから三ヶ月で足早に逝ってしまいました。
     最後の一ヶ月は、自宅療養を自ら選びました。
     ”どうしても書かなければならない詩が三つあるんだ”と目覚めているときは殆ど詩を書いていました。
     三つ目の詩集『餐』への詩を書き終えたのが、亡くなる少し前のことでした。
                   -------中略-------
    癌と戦う為に、この健康食品はどうか、あの病院はどうかと走り回っている私に、
    「お母さん、人は必ず死ぬんだよ、一喜一憂してはいけないよ。この薬(抗がん剤)で治らないなら、
    そこからは神の領域だよ」
    又あるときは、
    「命の限りを教えてもらえるなんて、幸せなことだよ」と淡々と繰り返していました。


               彼は一切を受容して天国に行ったのです。
    僕はそこまで悟って逝けるだろうか、まだまだ僕には出来ないと思います。
    皆さん、命を燃やして輝いて人生を生きようではないですか。
             昼は太陽を友として、夜は月を友として、愛する人と共に!





              不思議な縁 

 私の生まれ育った福島県川俣町の中学校の同級生10名で、異普奇会の望月さんNPO法人、地球の音の代表)
 プロデュースの「ああ、上野駅物語ー2005」を観賞しました。
 我々東北の人間が上京すると必ず上野駅16番線に到着しました。
 東京の第一歩が上野駅なのです。
 同級会というと上野公園にある西郷さんの銅像の前に集まっていました。
 今回も飲み会は上野でやりました。
 始めての方もいましたので、それぞれの近況を自己紹介と合わせて話してもらいました。
 その中で癌の夫を5年間看病した後最近亡くした人、13年間脳梗塞で半身不随の夫を看ている人、
 奥さんをなくした人、(僕も13年前なくしましたが)それぞれの人がそれぞれの悲しみと苦しみを
 この年〈61歳)になるまでに、味わったんだなあと思いました。
 その中で、個人タクシーのA君の話は不思議なことがあるんだなあと思わされました。
 彼が中学校を卒業して川俣町の左官屋で就職して何年か後、(17歳と言ってました)のある日、
 友人からバイクを借りて福島市まで乗っていって、そこで事故って6ヶ月の重傷を負い(足の骨折)
 大原病院に入院、その後川俣にある病院に転院したが、その治療費が払えず、
 友人に千円(今の1万円くらい)借りて その病院をトンズラして横浜まで来たそうです。
 660円の運賃の残りで毎日コッペパンを食べて道端で寝ていたら(身体も大分弱っていたそうです)
 通りすがりの人が「どうしたの」と声をかけてくれたそうです。
 「これこれしかじか」と話すとその人がたまたま川俣町出身の人で旭硝子の下請けの社長だったそうです。
 「家に来なさい」と助けてくれたそうです。
 人生は不思議な縁で繋がっています。
 異普奇会の総会でも、「何であなたがいるの」と言うことも有りましたし、
 昨年の異普奇会講師の竹野先生との忘年会では同じ町会の顔なじみの人が隣に座ってびっくりされていました。
 縁は異なもの味なものと言いますが、一期一会と思って付き合って生きたいものです。
                                   2005年5月6日 堀 秋人
 奇人

 日経新聞の漢字コトバ散策に京都国立博物館長の興膳宏さんが奇人について書いておられたので、
 紹介したいと思います。


よく変人と並べて取り上げられる語に奇人がある。
では、変人と奇人はどこが違うのか。
少なくともいえるのは、変人が和製漢語であるのに対して、奇人は中国の古典に見える由緒正しい漢語だ、
ということだ。
奇人は元畸人と記される。
荘子、大宗師篇に、奇人の概念をめぐる議論がある。
荘子に依れば奇人とは、人間世界では外れものだが、天の世界の仲間となる人である。
奇人の奇とは偶数に対する奇数の奇である。
その意味は半端で一人ぼっちと言うこと。
つまりこの俗世では理解者を得ない孤立した存在であること、を言っている。
ところが、人間世界を超越した天の次元ではその偶つまり仲間となる理解者がちゃんといる。
それが奇人なのだ。
荘子の説明をもう少し続ければ天の世界の君子は、人の世界の小人。
人の世界の君子は天の世界の小人である。
だから奇人はそもそも世間のけちな評判など最初から当てにしていない。
彼はひたすら天の世界の君子たらんと勤めているだけである。
近世の文人、伴蒿蹊に、近世畸人伝〈1790年)の著作の中で取り上げられている奇人たちは、
中江藤樹、貝原益軒、売茶翁、僧円空、僧契沖、池大雅、
といった独創的な業績によって今日まで名を伝えられる怱々たる顔ぶれを含んでいる。

そういえば変人と奇人を区別するもうひとつの理由があった。
奇人が後々敬愛の対象となるのに対して、変人にはそれがないと言うことだ、
と説明されていた。
ビートたけしは不思議な人と呼ばれたいと言っているらしいが、やはり奇人だろうか?
僕も普通の人といわれるのが嫌いで、変わっているねと言われると快感だ。
異普奇会のあの人は奇人か変人かみんなに一度聞いてみたいと思っています。
それじゃー、又会いましょう。

                                                 2005.3.13 堀 秋人
                            今年の願い
昨年は、大過なく一年が過ぎ、2005年を迎えることが出来、有り難く思っています。
私が小さいころ、母は健康が一番、普通が一番と、事ある毎に言っていました。
まさにこの年になると、その言葉の重みを感じます。
と言いますのは、50代、60代の仲間が昨年から今年にかけて、入院、通院、したとの話があちこちから聞こえてきましたので。
人生は、生きてるだけで丸儲け’という戦争をくぐった人の言葉がありますが、それにプラスして健康ならば本当に丸儲けですね。
今年の異普奇会は5周年となりますが、これも会員の皆様、講師の皆様に支えられてここまで来たのだと思っています
6月11〜12日講師の方は、ヒトゲノム=人生は遺伝子で決定されるか(仮題),村井義洋先生、
                  日本と世界における環境問題の第一人者、きくち ゆみさん
が決まっていますが、3人目の方をアタック中です。
5周年に相応しい内容と、80名以上の参加を頂いて成功させたいと強く願って居ります。
会員の皆様になお一層のお力をお貸しくださるよう、心よりお願い申し上げます。
今年の皆様のご健康とますますのご発展を祈念いたします。


コンサートで感じたこと
異普奇会の仲間たちと松戸市の森のホールで「さとう宗幸&伊奈かっぺい」のジョイントコンサートを見て来ました。
青葉城恋歌一曲のヒットで30年余り頑張っている’さとう宗幸’は、声の衰えも無くすばらしい歌を聞かせてくれました。
これまた’伊奈かっぺい’のアイロニーの利くジョークは、休み無く大きな笑いを誘い会場の雰囲気をリードしていた。
中年の男女(男30%女70%)が圧倒的であったが、女性は良く笑っていたが、どうも中年の男性(といっても定年後60〜68才)の男性は無表情で、私が50回くらい笑っていても一回もにこりともしない。
医者に言わせるとこれがボケの始まりらしい。
無表情、無感動、無行動、いわゆる、三無主義の始まりが”濡れ落ち葉族”わしも族”=わしも連れてってと妻にねだる”の始まりと思います。
完全にサラリーマン時代にエネルギーを出しすぎ、肉体として残っている姿はあわれさを感じます。
それに比べますと異普奇会の方々は、中高年の皆さん含めて元気に活動していて頼もしいと思う今日この頃です。
                                                               ’04.10月吉日
◇ 一枚の葉書
自宅の郵便受けに一枚の絵葉書が静かに斜めに入っていました。銀座の“かえる達”のシャンソン歌手
大橋ひとみさんの9月出演のお知らせの一葉でした。絵の中にすてきなポエムがあり、皆さんに紹介したいと
思いましたので、他人のものですがよろしくお願い致します。
    “無題”

 よろこびが集まったよりも
 悲しみが集まった方が
 しあわせに近いような気がする

 強いものが集まったよりも
 弱いものが集まった方が
 真実に近いような気がする

 しあわせが集まったよりも
 ふしあわせが集まった方が
 愛に近いような気がする
そんな気がする今日この頃の私ですが熱い熱い(暑い々よりピッタリ)夏も終わり来年に向けて
講演者との交渉に入っています。皆さんよろしく!(’04.9記)
◇―変な趣味―
千利休の和歌(利休百首)に “その道に入らんと思ふ心こそ  わが身ながらの師匠なりけり”
利休は、そのやりたい道に入らんとする心があれば、それを持つ貴男(女)自身が師匠ですよ。
考えれば好きこそ物の上手なれ、ですね。私も今まで一度もやった事のないものがあります。
一つに英会話。会社で始めた時10名位参加したと思いますが、一年過ぎたら解散してしまいました。
私は、続ける事は出来ないと思い参加しませんでした。本当は、苦しくともやっておくべき事だと反省しています。
次にゴルフ。これはサラリーの低い人間がやってもせいぜい三ヶ月に一度、コースに出るのがやっとと思い、
練習場に半年位(週一回)行きましたが、コースに出る事なくやめてしまいました。
ゴルフをやっている人を批判することは今はないです。
それから自慢じゃありませんが、ソープには一回も行っておりません。カッコつける訳じゃありませんが、
金で買う事が、自分の思想に反すると思いましたので。50才の時、浅草のストリップには行きました。
人生で一回のみです。この場を借りて告白します。神よ許してたもれ!そうゆう点は晩稲(おくて)でした。
じゃー僕の趣味は何だろう。堀さんの趣味は女性ですか?と、今年の五月、東京駅地下の平野屋(喫茶店)で、
学校の後輩の斉藤さんから聞かれました。すかさず、「人が好きです」と答え、「特に奇人、異能人、
天才が好きで、そういゆ人々を探すのが僕の趣味です。」と言って終りました。
自分にない、すばらしい能力をその人に発見した時は、自分の心に共鳴して幸せな時間となります。
もう一つの趣味は何だか解りますか?解った人はTEL or FAXを是非下さいませ。お待ち申し上げます。
PS.現在会っている天才は日本のビッグレースでTOPを取った、当年60才の元 F1レーサーの
ドクター漆原さんです。ヨーロッパでは現在でも、伝説になっている人です。(’04.8記)
◇―不思議な縁―
世の中には縁というものがありますが、エ−ッ!エ−ッ!と言う様な事が今まで多々ありました。
千葉県松戸市の東葛総合法律事務所(以下事務所)が開所して来年は三十周年記念になります。
始めた弁護士Z氏は、私の明大時代の先輩T氏(現福岡県飯塚市で弁護士)と同郷(沖縄出身)で
知人でした。共に沖縄の本土復帰運動をやっていた仲でした。又明大の後輩、中嶋弁護士も十年位
この事務所で頑張っていたのです。又元山梨弁護士会長の関本氏(明大時代の友人)の所で
司法修習をして5〜6年前頃この事務所に入って来た人が現在小田原で開業している光谷弁護士
(異普奇会会員)です。また事務所友の会の幹事である小島さん(異普奇会幹事)はやはり明大時代
工業化学科の同じクラスの石井建君(現在都庁)と親戚で東京世田谷の彼の住所に小学校時代
住んでいて石井君とは良く遊んだそうです。最高の縁は二十五年間事務所に勤めている現在の
妻との縁だと思います。一つの事務所だけでもこれだけの縁に囲まれています。
悪い事は出来ませんね。
 PS.そう!そう!ウソ−!本当の事ですが、東葛総合法律事務所の代表のK弁護士と同期
(司法修習生)の加藤弁護士が関本弁護士と同じ事務所に入りました。その流れで光谷氏が
松戸の事務所に入ったそうです。もう一つ縁がありました。又々弁護士さんの話になりますが、
ロシアのツアーに数年前行ったのですが、そのツアー仲間の青木さんの息子さん(弁護士)と
事務所のF弁護士が中大の同期で友人だそうです。こんなに一つの事務所で縁がありますが、
本当に縁は異なもの味の素(?)ですね。今日は本当に暑い!外は40℃・・・
こんな日本にダレがした。責任者出て来い!!  END.(’04.7記)
◇日経新聞の私の履歴書の野見山画伯の文章にほんの少し手を入れて詩にしてしまいました。
お許し下さい。野見山様。(’04.6記)
◇−父ちゃんの言葉 母ちゃんの言葉−
 父ちゃんは私が小さいときから「世の中は 何のヘチマと思えどもブラリとしては くらされもせず」
と言っていました。これなんか口で格好いい言葉を吐いていた小生意気な私に対する
アイロニー(皮肉)だったんだな、と今になってグサッと刺された気分になります。
 このように60歳になり、定年まで残り少なくなってようやくその意味がわかるようになってきた
のも幾分大人に近づいたからなのかもしれません。
 父は女工哀史のもう一つの町、福島県伊達郡川俣町に明治時代に生まれ、
高等小学校を卒業すると機(はた)屋さんに工員として入りましたが、
どこの機屋でも糸を切ってしまって使い物にならず、首を切られたとのことでした。
そのため絹織物を売り歩き、店を出す金をためてお茶屋を始め、
その後瀬戸物などを売るようになり、結婚して子供7人を育てあげました。
 私は小さい頃から店番をやり、お客が来れば裏に居る父を呼ぶのが一つの仕事でした。
そんな折、どんな客にも頭を下げる父にお客が帰ってから聞きました。
「父ちゃん、なんでみんなに頭を下げられるの?」と。
父「人に頭を下げるんじゃない。金に頭を下げると思えばいいんだよ。」
 今思えば現金な親父の顔が浮かんできますが、私が金がほしいと言ったらけっして断らない父でした。
92歳で数年前に亡くなり、今は松戸市営の白井霊園に母と前妻と仲良く入っています。
 僕達兄弟のため60歳まで働いた父は、長兄にすべてを譲り裏の隠居部屋に母と共にひきこもりましたが、
その兄が事業をどんどん拡大し休みなく働いた時、
父は兄に「博よ、金か命かだよ。金は命に替えられないよ。」と
忠告したのを覚えています。その数年後、兄は白血病になり50歳で亡くなりました。
 そんな父の言葉に聖書の一節がありました。
 「静雄、いいかい、『求めよさらば与えられん、叩けよさらば開かれん』だよ」と。
待っているだけではダメだ。自分で行動せよと教えてくれたのです。
 母の言葉で一番想い出す言葉は・・・私にとってつらい一言があります。
 小学校の一年生の頃、母のサイフから当時五円の小遣いの時に、
百円盗んで家の真向かいの杉内君の柏屋で和菓子を買い、
友達と一緒になって全部使って食べた日の夜。母はポツリと「誰が盗んだか知っているよ」
この一言で痛切に反省したことも今想えば懐かしい人生でしたし、また母の教育の仕方でした。
 小学生の前にもう一つ、皆さんに笑われるエピソードがあります。
 ある日、幼稚園から帰って家にいると、クラスの級長がドアを開けるなり入ってきて
「静雄ちゃんは毎日帰りに幼稚園から家まで友達を後ろに並ばせて歌を歌って帰ります。
それをやめさせて下さい。」と父と母に言いました。
 父と母が「どんな歌?」と聞くと、
級長「たんたんタヌキのキン○○は風もないのにブーラブラ、の歌です。
先生にやめさせるように言われて来ました。」
いやいや、あの時ほど恥ずかしい事はなかった。
その後は一人で歌うようにしました。(その時父と母が何を言ったかどうしても思い出せない。)
 高校一年の時、渡り鳥のツグミを撃って営林署から呼び出しを受けた時、
父に家を出る時に「黙秘するよ」と言ったら父「・・・・・・」だまって送ってくれました。
友達 ―今は有名な東北一の蕎麦打ち師― と一緒にやったので、
絶対友達の名前は出すまいと思っていたが、すでに友達も通報者が名前を知っているために
自白させられた後であったので、私も観念してツグミを空気銃で撃ったことを認めました。
営林署の課長クラスの人にとっては、十五歳の少年を自白させるのは赤子の手をひねるより簡単だったのでしょう。
しかし、しかしですよ、我々を密告した男は映画館=川俣座の近くの風呂屋の親父、
彼も同じツグミをとっていたんだよ。何てこった。弱い我々だけ捕まり、彼はのうのうとツグミをとっている。
法は人によって差があり、権力者ほどその適用を免れているのは今も昔も変わらないですね。
町の巡査はちょっと悪い事をやると首がチョン!エリートは悪い事をやっても退職金。
これじゃ法は万人に平等に適用されていないということじゃないですかね−。
 時代は飛んで、私四六歳。九州出張所(所員ニ名)に転勤。
この時も母は、電話をくれて「いつ実家に帰るのか。」と聞いてきました。
年に一回から二回は帰省しましたが、帰ると八五歳と八六歳の母と父は、
ビール一本と酒の肴を用意して、心待ちに店の裏にある離れで待っていました。
このような父と母の心のこっもた歓待を想い出すたびに自分の親孝行の足りなさが悔やまれ、涙が流れます。
 父ちゃん!母ちゃん!今人生の一区切りが終わろうとしていますが、
その一言一言を心にきざみ、苦しい時もそれを糧(かて)として生きて行こうと思っています。
八月のお盆にはまた家族そろってお逢いいたします。それまでさようなら。(’04.5記)
◇−人生のリスト−
58才で会社を希望退職で一番に手を上げた。
その時会社を辞めてからの第三楽章の人生のリストを作成していた。
第一楽章は生まれてから学校を卒業するまで。会社の生活は第二楽章。
そして第三楽章は親からも会社からも独立した本当の自分の人生。
やりたい事のリストは10項目。
@小説を書くこと・・・博多川を出版し、無料(無料でなければ読んでくれないだろうと思って)で配った。
A海外旅行へ行く事・・・ロシアへ行きナターシャと友達になった。
B家系を調べる事・・・新潟県吉田町役場でひいジーさんが江戸末期の又六という百姓だった事がわかった。
C資本論を勉強する。・・・難解で何回読んでも理解できない。
D異業種交流会を全国的に発展させる。・・・異普奇会もようやく五合目に辿り着きました。
E発明する。・・・頭の中にはアイデアがいっぱい。
F会社を作る・・・赤字会社 ホリ・コーポレイションを立ち上げた。
G本を年100冊読む・・・ただし週刊誌含めて。
Hボランティア活動をやる・・・東葛よい映画を見る会を皆で立ち上げました。
  <5月29日松戸でアフガンを舞台の映画「アイ・ラブ・ピース」を上映します。>
I行方不明の次男を探す。・・・もう7年になろうとしています。(’04.4記)
◇−愛と恋と−
“一目惚れ”と言う言葉があるが、両方がそういゆう状態になる確率は
一万分の一程度あるか無いかだと思う。
一方がこうゆう状態になる事は百分の一程度あるように思われる。
男性は母に似ている人を好きになるらしい。
私の母は丸顔だったのでやはり私が好きになる女性は丸顔の人だ。
人を好きになった状態は正常ではなく、異常な時で、
脳の中に脳内伝達物質=フェニル・エチル・アミンが発生する。
好きになるから発生するのであり、発生するから好きになるのではないらしい。
この物質の発生は三〜四年続くらしい。
二度惚れすると又この物質が発生する。惚れっぽい人はしょっ中この物質が発生するのだ。
女性は好きになっても、すぐに結婚とは考えないらしい。
じーと相手を観察し、遺伝子として強いかどうか?
一緒になって自分と子供が幸せになるかどうか等々、次の世代まで考えるらしい。
美男美女のカップルが少ないのはその為らしい。
権力者に美男子が少ないが歴史的に美女と結婚している例は枚挙にいとまがない。
イギリスに小話があるが、美女と権力者の結婚の前の夜、寝室でその美女が
「貴方と私の子供はすばらしい頭のいい、美人が生まれるわね!」
「人生そうはうまくいかない場合が多いよ。君の頭で僕の顔の子供ができたら目もあてられない」
こんな会話があったとさ。
次の日の結婚式は果たしてどうなったのでしょうか?(’04.2記)
◇最近本屋で見かける本の中で、斉藤一人氏という人について書いてあるものが数多くあります。
昨年も所得日本一になった方で健康食品会社のオーナー社長です。
自分が幼少の頃から身体が弱かったのでいろいろと健康食品を開発して発売したところヒットし、会社は成長し続けています。
彼の考えは非常に前向きです。
例えば、鼻緒が切れたら、普通の人は不吉に思ったり、なにか悪いことが起きるのではないかと考え勝ちですが、彼は違います。
新しい下駄が履ける。うれしい事が起きたと常に良い方に考えるそうです。私も姉に「松戸一の極楽トンボ」と言われ、
最愛の妻に「脳天気」と言われますが、考え方は似ているなと思います。氏とは金と所得は月とすっぽんですが!
斉藤一人氏は税金をドンドン支払う事に喜びを感じているようです。
また、人のためになる事を日々やっているそうです。
この条件が成功の大事な要点のようです。是非、本屋で見つけて読んで下さい。(’04.1記)